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       平成天皇も宿泊された「サンライズ九十九里」近くに「智恵子抄」の石碑がある。  
        運命の出会いと二人が過ごした九十九里には、最愛の妻への高村光太郎の思いが偲ばれる。  
      【高村光太郎(1883〜1956)】  
       ◆―ロダンとの出会い―◆ 
        高村光雲の長男として生まれた光太郎。幼いころから家業 
        を継ぐべく彫刻に親しみ、父光雲が教授を務める東京美術学校に進む。  
        明治36年光太郎は写真を通してロダン(*)の彫刻を知った。彼はその作品に感動し熱中した。そして彫刻家としての道を歩みだし、ニューヨーク、ロンドン、パリにも渡っている。そこで欧米と日本とではあまりにも文化が違うことにひどく衝撃を受けた。後に光太郎は欧米文化を日本に取り入れようとしたが、やはり欧米は欧米、日本は日本であった。そう簡単にうまく物事が運ぶはずがない。彼は東洋と西洋との亀裂に苦悩した日々を過ごすことになった。 
        (*)ロダンはフランスの彫刻家であの有名な『考える人』を作った人。 
      ◆―智恵子との出会い―◆ 
       光太郎はそんな時に女流画家の長沼智恵子と出会う。 
        1911年のことである。2人は共に生き愛し美を 生み出しあう関係へとなっていった。しかし、幸せはけして長くは続かなかった。  
        精神病が智恵子を襲ったのだ。そして精神病の療養のため2人は1934年に九十九里浜を訪れた。そこで光太郎は「千鳥と遊ぶ智恵子」「風に乗る智恵子」など智恵子に対する限りない愛をいっぱいに注いだ詩を残した。光太郎の思いかなわず、昭和13年10月5日智恵子はこの世を去った。 
        
       ↑「千鳥と遊ぶ智恵子」の全文が光太朗自筆拡大で刻まれている碑↑ 
        (九十九里 真亀海岸) 
      ◆―智恵子抄―◆ 
      長沼智恵子。彼女の死がきっかけになり『智恵子抄』は生まれた。 
        光太郎が智恵子との愛の生活の中に次第に自分がいやされていく喜び、死別に より受けた限りない悲しみなど智恵子への賛歌であり死を嘆く魂の叫びをつづったものである。 
       
      【高村光太郎が残した作品たち】 
      智恵子の死後も数々の芸術品達を残している。 
      
         
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             『兎』 
              手版浮彫明治29年 
            じつに細かに彫られた作品です  
             
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             『手』 
              大正6年 
            光太郎の彫刻品の中で 
              最も有名な作品のひとつです。  
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             『上高地風景』 
              大正2年 
            明治43年〜大正3年。作っても発表する場が無い彫刻よりかえって絵画に興味をひかれこの時代の光太郎はむしろ油絵作家だった。 
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             『道程』 
             右は大正3年の初版、左2冊は改装した再製本。(智恵子抄の前に出した1回目の詩集) 
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             『鯰』 
               木彫、大正15年 
            『鯰』の詩は高校の教科書にまで載っている。 
               
             
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      智恵子を失った光太郎は戦争という歴史の渦に飲み込まれる。 そして彼は敗戦直後から岩手県の山中にこもり、『暗愚小伝』(あんぐしょうでん) という厳しい内容の記録を書き新たな芸術創出を願い 
        つつ、世を去った。  
        ←光太郎が7年間住んだ山小屋(岩手県太田村) 
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