九十九里の浪士隊、真忠組! 九十九里町 史跡の旅 (文責 竹村 彩) 

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 最期まで己の信念を貫き通し、花のように短い人生をおくった者がこの幕末の激動の時代には多かった。真忠組もそんな中の一隊だった・・・。 そんな彼らの信念が石碑になり私たちに何かを伝えようとしているのは気のせいだろうか・・・。

【真忠組とは?】

 房総九十九里の片貝の浪士隊。(仕える主家のない武士達のこと)
 首領の楠音次郎を中心に、真忠組本隊は関東取締出役の配下だった。

【楠音次郎とは?】

 真忠組になる前の音次郎は各地を流浪していた後、樋山家に入って烏山(からすやま)藩に仕えていた(現在の栃木県烏山町)。しかし尊王攘夷により脱藩してしまう。
 そして音次郎はその後、自ら家塾を開いた。やがて周囲には思想に共鳴してやってきた三浦帯刀(みうらたてわき)らが集まりそして貧農、小作人達もが集まった。貧民救済と鎖港攘夷の主張は、さらに九十九里漁民の支持をも得た。音次郎達の活動は拡大して世直しへと発展した。

【真忠組としての活動】
 文久3年(1863)12月4日上総国小関新田の大村屋旅館を接収して本拠を置いた。これが真忠組としての始まりとなり組員87人は本隊のほか茂原村東光院八日市場村に派遣され情勢は一挙に拡大した。そのためこのことをよく思わなかった福島藩、一宮藩,多古藩、佐倉藩らが藩兵1500人を動員して元治元年(1864)1月17日三拠点の攻撃にあってしまった。その結果真忠組は1日で壊滅という運命を歩むことになってしまった・・・。

<真忠組志士の碑>
真忠組の幕末の騒動の碑。
作田川河口の道路沿いに建っている。
隣りには「待てど暮らせど来ぬ人を…」の文字 がきざまれた竹久夢二の宵待草の誌碑もある。

 ●アクセス情報
 


【交通】
九十九里有料道路(波乗り道路) 片貝インターより 車で 5分 ⇒ こちらの地図より、お越しください。
JR東金線 東金駅より本須加行き 九十九里鉄道バス 港入口下車 2分

 


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